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ベルファスト・オデッサ間の補給ライン断絶も、本来オデッサが非常に高い生産性を維持する鉄鋼山地帯であるために全くの意味をなさなくなっている。付け
加えるなら、たかが小規模の小隊一つが幾ら神出鬼没に作戦を展開しようとも幾つも点在するラインすべてを網羅する事など不可能なのだから。さらには、部隊
の戦力低かもそれに衰勢の一助を与える。こちらが補給ラインの断絶を狙っての作戦であるのに、あちら側がこちらの補給ラインを断絶しにかかっているから、
笑い話にもならない。ミイラ盗りがミイラになるとはこの事だ。ジリ貧の作戦にこちらの弾薬も燃料もほぼ底をついてきている。
既に各部隊の後退も開始されて、現時点で補給ライン断絶作戦を展開していまだに活動を続けているのはジオン独立遊撃師団第二十七小隊、別名「ファント
ム」と呼ばれる部隊しか残されていない。ファントムは奇襲作戦を専門とする言わばゲリラ部隊だ。しかし所属師団が遊撃隊なので比較的自由な行動が許されて
いるから、隊長の命令一つで様様な戦況に対応していかなくてはならない順応性が各パイロットには求められるところでもある。そのためか比較的遊撃師団のパ
イロットにはエースの素質のある人間が集められてくる。いわゆるジオンの未来を担う有望な兵士たちの養育部隊でもあるかもしれない。電撃戦、奇襲戦、陽動
戦・・数え上げれば限りないがそれら全てに対応してこそエースが生まれるのだという一種の信仰が遊撃師団にはある。まんざらそれも嘘ではないだろう。Aと
いわれてAしか出来ない奴は所詮そこまでなのだ。
Aと言われたらその次に予測されるB,C,D・・・を即座に計算してそれを行動に移さなければならない。撃てと命じられて射撃ばかりしていては敵の格好
の的になる。撃てと命じられたら、その間に敵から安全なポイントを即座に割り出し、そこまでの移動時間を計算して到達と同時に射撃をする。そこまでを考え
ていない限り、戦場では生き残れないだろう。それを育てるのに遊撃師団と呼ばれる育成学校は非常にニーズに合った師団といえる。
そこで生き残って戦果を上げるパイロットこそエースと呼ばれるにふさわしい事は既に暗黙の了解であろう。辺りの冷たい目と態度はよそに私も瞬く間に戦果
を上げエースの一人として数えられていった。それは別段望んだ事でもなく、どちらかと言えば上層部のお偉方が私の死を願っての戦線投入だった。先述の通り
ジオンの異端児だ、非常に目障りな存在であるから、それなりに戦ってさっさと死んで欲しいのが本音だろう。だが、予想以上の戦果を上げしまい、彼らの目の
上の瘤となってしまった。これではジオンの優良種説が覆されてしまう。だが、ジオンにとってエースは今一人でも必要な存在なのだ。名実ともに満たされる事
は戦争ではなかなかないという事をその時上層部は悟っただろう。
ファントムも最後の断絶作戦を展開し終え慌ただしく後退の行動を開始する。出撃前にほとんどの作業は終了しているようで、今までのベースキャンプを破棄、
キリマンジャロまでの撤退を余儀なくされた。だが、オデッサからキリマンジャロまでの岐路は正直な話し絶望的な距離でもあった。制空権はほとんど連邦軍が
握り、こちらの移動といえば専らトレーラーによる地道な陸伝いだ。MSもスタンバイできないような状態でもし敵に空爆されたらひとたまりもなく全滅だろ
う。
全員が全員気が気でならなかった。こんな状態で居るときにMSという兵器は非常に運用性の悪い兵器である事に改めて思い知らされる。少しの整備の手抜き
で機嫌を損ねて動かなくなり、問題が起こると鼠算にあちらこちらに問題が発生して、小さな故障が機体破棄の原因となる事もある。一発の被弾で粉微塵に吹き
飛び、一度こけると何処かが問題を起こす。そのくせ積んでいるエンジンが微妙なバランスで稼動しているため、一度爆発が始まったら誰にも止められない。通
常、兵器と言うものは、アニメなどにあるようにあちらこちらと適当に弾が当たりさえすれば爆発するような危険なものではない。
特に大型の機体になればなるほどだ。人が搭乗して操作するような兵器ならなおさらである。各ブロックがそれぞれ電子制御で維持されて、問題が発生しても
その他の機能でサポート制御されてよほどのダメージを受けない限り爆破炎上するものではない事は当然である。だが、戦闘機のように空に浮いているだけでも
微妙なバランスである所に弾丸が一撃でも当たろうものなら話しは別だが。その点MSは戦車のように陸で活動するくせに、精密さでいえば航空機に負けず劣ら
ずの代物である。
それでもMSは非常に高性能な戦闘能力をはじき出し、戦車や航空機では到達できない地点へ到達する。多くの兵器を運用し、一機で戦車何台分もの攻撃力
と、戦術展開を可能にする。そここそがMSの最も重要とされる意義だろう。だが、そんな偉大な発明も、今はただのお荷物でしかない。
MSの足並みにそろえて移動していてはキリマンジャロまでの道のりが更に遠くなってしまう。それだけ敵との遭遇確率も高くなる事だ。こういうときばかり
は邪魔で仕方がないと誰もが心の中で呟いているだろう。オデッサも完全に陥落し、地球に残された拠点はキリマンジャロとごく僅かとなった。ジオンは起死回
生としてジャブローに降下作戦を仕掛け、その作戦に敵が気を取られている間に地球上の残存部隊をキリマンジャロに結集させる腹だ。
あわよくば地球連邦軍壊滅、運が悪くても、地球上における最終防衛ラインを形成する事が可能となる。右に左にこけてもただでは起き上がらない卑屈精神の
表れともいえる作戦だが、戦争をするにこのような作戦は非常に効果的である。どちらもあくまで隠密に事が進められなければならないため、迅速かつ大胆な行
動が要求される。移動手段を早めるために、隊長自身も苦渋の選択として、MSの収納を命じたのであろう。想像するに難くない。
張り詰めた雰囲気の中で大型トレーラーは砂塵を上げて荒野を突き進む。ユーラシアからアフリカ大陸への移動のためにエジプトを経由しないと陸伝いには行
くことが出来ない。そのためにずいぶんと大回りな路程になるものの、水上船舶を所有しない陸戦隊の唯一の通行手段なのだから仕方ない。あとものの数日もし
ないうちに作戦が開始されるにもかかわらず、行程の半分ほどしか進んでいないため各人に焦りが見えてきている。ここまで危険を侵して作戦失敗となれば軍法
会議で死刑も免れない。そのために誰も彼も神経を逆立ててちょっとしたことで怒鳴り散らす。
喧嘩もここ数日絶えない。そんな中で相も変わらず栞だけは涼しい顔をして最後尾に走るトラックの更に最後尾に腰を下ろしてエジプトの砂漠を眺めていた。白けたような表情と無気力な雰囲気が一座と食い違っている。彼女の後ろでは日課である大喧嘩が行われていた。
どうせ理由など取るに足らない、馬鹿げた事なのだろうが彼らにとっては気紛らわしになれば理由など聊かも関係ないようだ。周りの野次馬も面白しろがって
はやし立てる。まるで格闘技の観戦でもしているかのように静まったり盛りあがったりの繰り返しは、全体像からすると全く抑揚のない画一化されたものであ
る。
だから、次第に見ている人間も興ざめをして、その喧嘩はもともとなかったかのようにいつのまにか立ち消えてしまう。恐らく喧嘩を始めた本人達も一体どの
ような理由で何故喧嘩をしているかなど全く覚えていないだろう。そんな、主体性も形もない暇つぶしなど、栞以外の人間にも何の魅力のない。
それを毎日繰り返すにつれて人間は飽きを覚えてくるから、明日か明後日には殺人でも誰か起こしてくれないものかと栞は腹の中で呟いた。彼女も無論刺激的
な嗜好品を提供してもらわなくてはならない。日ごろは戦場で敵を殺す事が彼女の嗜好品の代用とされていたが、ここ最近は停滞気味で彼女の血を躍らせるよう
な事が何もない。暇な人間は暇な人間なりの時間のつぶし方というものを知っている。先ほどの人々も自分達の暇つぶしを見つけるのは下手ではあっても栞ほど
ではないだろう。栞は暇つぶしを見つけるだけの柔軟な思考の持ち主ではないようであり、唯一ある暇つぶしとしては髪の毛を数えながら抜く程度だ。無論、現
在もそれで暇をつぶしているのだが、大抵30も抜いてしまえば飽き飽きしてくる。そしたらもう何もする事がない。退屈は平凡な日常のスパイスと誰かが言っ
た記憶もあるが、退屈が続く日々にはきっと平凡がスパイスになるのだろうと馬鹿げた事を考えて思考を停滞させた。
悪魔のように照り付ける太陽が少女の白い肌を焼き上げていく。普通健康体なら赤くなる程度で済むだろうが、普通でない彼女にとって骨身を焦がすほどの熱
線は皮膚を文字通り焼き、細胞を破壊する。既に日の当たっている部分の皮膚は赤くなり、ただれて所々では皮膚がめくれあがってさえいる。それでも彼女は動
こうとしなかった。暇ですることはないが、あたりを動き回るのも無駄な事だと言い聞かせてこの場から動かないようにするための、身体が発する危険信号への
言い訳にするための材料としている。思考も既に上手く立ち行かなくなっている。ただでさえ光の吸収が早い黒い髪の毛に帽子も被らず、長時間一点で身じろぎ
もしないで座りつづける事など、現地人ですら行いはしないはずだ。
強いてこんなことをするのは、どっかの上座部修行僧か修道士程度だろう。無論彼女はそのどちらにも属さないのは自明の理であり、それなのに意固地になっ
て座っている姿は何処か滑稽ですらある。眼圧が高いらしく、手の甲で左右を交互に圧迫してから離す。そして頭頭をして、太陽熱による汗と体調不良による脂
汗が混じった何とも言えない汗を吹き出している頭を冷やそうとする。だが、そうするたびに耳の奥にある三半規官が揺さぶられ平衡感覚を失い、頭痛がひどく
なる。
そこまでしてどうして噛り付いたように座りつづけるのか。それをしなければ死ぬと宣告されたわけでもない。むしろそれを続けると栞ではなくても命の保証
はない。熱射病や日射病は思われているほど軽いものではなく、下手するとそのまま意識不明に陥り最悪の場合は死亡だ。だからこそ、日差しの強い国では帽子
を被るなどの対策を講じているのだ。暑い中で帽子も被らずに座りつづけるなどただの馬鹿がする事だ。むろん今の栞はその馬鹿の一人になっている。容赦なく
照りつける太陽をまるで睨みつけて対峙するかのように栞は座りつづけた。
「こうすれば、きっと地獄に落ちたとき他の誰よりかは涼しい思いができるわね・・・」
そして唇を歪めて笑った。頬には水を被ったかのように汗が伝い、その汗とあいまって彼女の卑屈な微笑が何処か強がりにも見える。
これが彼女の八十八箇所巡りと言ったところか、自分が地獄に落ちたときの備えをしていたらしいが、他から見ればただの滑稽な意地の張り合いである。来年
の事を言えば鬼が笑うと言うが、死んだ後の事を考えたら一体誰が笑うのであろう。彼女はそこで考えた。鬼よりも卑屈で嫌らしい存在。それがきっと私を笑
う。そして、鬼よりも卑屈で嫌らしい存在など私が知り得る限りでただ一人しか居ない。僅かに一人鬼よりも忌々しい存在がある。そう、この世にたった一
人・・・私だけ。きっと地獄で私が私を笑っているだろう。それも、今まで見たことないようなけたたましくて、卑猥で、陰鬱な声で・・・。
時間も大分過ぎ去り、日も既に傾き始めていた。さしもの栞も体力の限界を感じたのか日が南天に達した頃には既に陰の中へ非難をしていた。燃えるような身
体の熱さと動悸の激しさが小さな身体の中でのたくっている。跳ねるような心臓が肋骨を打ち、人間を最も興奮させるというエイトビートを刻んでいる。
血液は沸騰したかのように熱く、呼吸をするたびにその熱を肺の中で吸収した吐息が怪物の吐く炎のように熱かった。日もかげりはじめ、涼しくなってくる夕
暮れ頃に少女は眠気を覚えた。初めは何気ないものであったが、それは次第に大きくなる。ゆっくりと眠気が迫り、一瞬脱力して我に戻る、また眠気が迫り、脱
力・・・幾度か同じサイクルを繰り返してそのうち完全に睡魔が彼女を支配した。普段は怪物じみた奇怪な行動と発言を繰り返すこの少女も眠ってしまえばただ
のなよなよとした女の子に他ならないような姿でもあった。
夢をみた。もうずっと昔に忘れ去ったような、夢だった。
一匹の小さなハエが飛んでいる。
日ごろから病気がちで小学校もよく休み何時も家で一人ぼっちで眠っていた。両親も共働きで、昼は何時も静かな部屋の中で姉が学校から帰ってくるのを待ちつづけている毎日。布団にうずくまり、何か怖い怪物が自分を探して食べてしまわれそうな錯覚に太陽の下で怯えていた。
刻刻と時計の針が静かな部屋の中に容赦なく自己を主張して、まるで自らがこの家の主であるかのように尊大にふるまっている。その音が怪物の足音に聞こえ
てきた。あまりの怖さに布団を頭からかぶり、身を小さく震わせている。等間隔に聞こえる時計の自己主張が怪物の足跡のように耳に迫ってくる。一歩、また一
歩と次第に近づいてきて、今自分の枕元までやってきて自分を食べてしまうかと思った。だが、誰も何時までたっても食べない。
一歩、一歩と確実にこちらに向かっている時計の音以外何も聞こえていない中に、私は蟲の羽音を聞き取った。それは、今まで尊大にふるまっていた時計の針
の音の自己主張を瞬く間に彼方に追いやってくれる。怪物は足早にその羽音に恐れをなして何処かへ消えていってしまった。今まで枕元にいた怪物も来たより
もっと早く何処かへ去ってしまった。
私はゆっくりと布団から恐る恐る顔を出しあたりに誰もいない事を確認するとゆっくりと羽音のする方へと目をやった。それは、小さなハエだった。小気味よ
い羽音を立てて右へ左へと自由に飛びまわり時折と止まっては、またせわしなく飛び立つ。そしてそのハエは二、三回部屋を旋回して私の目の前においてある机
へゆっくりとあたりを見まわすように警戒して降り立った。私はそれをじっと見つめている。 机に降り立ったハエは、六本の足を忙しなく動かして前へ進んだ
ら、突然方向を変えて先ほどとは逆の方向へ走り、またもと来た方向へと走り出した。そんな姿が滑稽で私は恐怖も忘れてそれに見入っていた。
この机が安全な事をハエは確認した後、前足を使って頭を擦り始め、手を洗うように前足をごしごしして、また頭を擦る。テレビで見た事のあるハムスターの
洗顔のようだった。目玉が七割ほど占めるその頭と手を何度も交互に擦り合わせてから再びハエは何かを思い立ったかのように当たりをきょろきょろと見まわし
た。
すると、何かを見つけたかのように突然飛び立ち、まだ片付けていない私の昼食の周りに着陸する。私は決して綺麗に食べられるような行儀の良い女の子では
なかった。味噌汁も辺りそこら中にこぼしている。私がこぼした味噌汁の作った小さな水たまりを発見したハエは訝しげにゆっくりと近づいて、それが食べられ
るものだとわかると先ほどの警戒心など解いて一心不乱に私の食べ残しを食べている。そんなハエを私は気持ち悪いとは全く思わなかった。自分を食べようとす
る怪物をやっつけた、勇敢な正義の味方だったから。
先ほどのように静寂が訪れ、また怪物の足音が響いてくるがもう怖くはなかった。また、やってきてもここにいるハエが追い払ってくれると私は信じていた。次
第にその音が大きくなり、そしてまた私の近くまでやってくる。私は目線をハエから離さなかった。この小さな勇者から目を離したら私は怪物に一飲みにされる
と感じたからである。
コツ、コツ、コツ、コツ・・・
その足音が私の近くで止まった。それでも私はハエから目を離さない。バシッ!!
途端に私の目の前で小さな勇者が叩き潰された。逃げる間もなく、なす術を何も持たずに私の勇者はあっけなくたたき殺された。そして、その叩き殺した物体を目でなぞると、そこには見なれた人の顔があった。
「おねえちゃん・・・」
姉だった。姉がハエを叩き潰したのだ。
「栞、なにやってるのよ。ハエなんかじっと見て・・・。」
ハエ叩きを片手にそっけなく私の顔を見ている姉がいた。ランドセルを背負い、肩まで伸びた癖毛を風にゆらゆらと揺らしている。姉は手早くチリ紙でぺしゃんこのハエをくるむと、さっさとごみ箱の中へと放りこんだ。
「まったく・・・栞ったら、食べたものはちゃんと流し台に持って行きなさい・・。」
小学生とは思えないほど慣れた手つきで私の膳を下げて、台を拭く。まるで、何もなかったかのように冷静。
「おねえちゃん・・・」
私は再び口を開いた。姉は振り向いて、私を見つめる。背負ったままのランドセルに付いている鈴がリンという音を上げて軽やかに鳴く。
「なに、栞・・・」
じっと私は姉を見つめた。その時私は何を考えていたのかは覚えていない。もしかしたらあのハエを殺した事に罪悪感を持ってほしかったのかもしれないし、そ
のハエがいなくなったことで明日怪物に食われてしまうかもしれないよと言いたかったのかもしれない。でも、無言でじっと見つめているだけでは姉は分からな
い。そのまま視線を元に戻して残りの作業を進めていく。姉が動くたびに鈴の透き通った音色が響く。
遂にジャブロー降下作戦が開始されたとの報告が通達された。こちらはまだ行程の三分の二ほどしか進んでいなく、作戦終了までに目標のキリマンジャロまで
到達できるかが正直危うい状態であった。サバンナの大平原が当たり一帯の視界を埋め尽くし、行けど行けども背の低い草しか存在しない。
ここはジオンの制空権であるために、一同の空気も軽やかでここ数日まで当たり前のように起こっていた揉め事もほとんど見られなくなった。時折ジオンの軍
歌が歌われて、天下はジオンのものだと言わん限りの態度と虚勢を張っている。つい数日までは負け犬のように怯えて吠える事も出来ないくらいだったのに、突
然の豹変振りに栞は侮蔑をこめた笑みを浮かべていた。
相変わらず最後尾のトラックの最後尾に座り込み、そこを己が陣としていた。だれもそこには近づこうとはせずに、ある程度距離を置いたところで別の陣をひ
いている。遠ざかるサバンナの風景を眺めている栞は自分の頬をなめる風を感じて不機嫌そうな面持ちで腰を下ろし、肩を抱いている。エジプトの砂漠の太陽に
負けず劣らずサバンナの日もなかなか強い。汗が彼女の頬を伝いそして下へと落ちる。だが、そこから彼女は動こうともしない。
また例の八十八ヶ所巡りだろう。赤くただれた皮膚が痛々しく感じるが彼女と言えば無表情を決め込んで何もかたろうとしない。黙々とただ自分の死への準備
を進めているだけだ。自分の作業を続けて、誰とも接しようとしない彼女のとなりにあの年をとった軍医が現れた。白衣に身を包み両手に缶を携えての登場だ。
一瞬目線を彼に向けたが、悪いものでも見たかのように疎ましげに目線を元の位置に戻した。そんな彼女の態度に気付いていない振りをして彼が口を開く。
「こんな暑い中で何をしているのかな?っと・・コーヒーを飲むかね。缶だが決して悪い味ではない。」
そう言うなり有無を言わさず少女の鼻っ柱に冷やされた缶を押し付ける。必要がないと言う意思表示に彼女は顔をそむけた。が、老医は再び鼻っ柱に押し付け
る。そんなことが、二度か三度続けられて漸く栞はそれを受け取った。理由の一つとしては邪魔で仕方がないこの老人の偽善者的な好意から逃れるためだろう。
それを受け取った事に気を良くした老人は栞の近くの影の下に腰を下ろした。
「お邪魔で悪いが、この老人の愚痴でも聞いてくださいな。」
「お断りします。」
「最近の事ですがね・・・」
この老人は人の話しを全く聞かない始末の悪い男と見た。栞は恨めしげに視線を流し、彼独特の調子に合わせて動く唇を見る。
「最近、どうも、わからないことがありましてな・・・。ま、単刀直入に申し上げましょう。あなたが一向に死なない事です。」
眉根を動かして栞は話しに耳を傾ける気になった。
「ワシの診断では、入隊時の体力精神力面から見てもあなたが侵されている病気で死ぬ確率は99%でした。それも入隊から2ヶ月以内に死ぬという確率が出て
いるのにもかかわらずです。で、例の『薬』を使い始めてからは、一時期身体機能の回復と改善の兆候が見られましたが、すぐに薬物による中毒症状が起こって
その中毒の末期症状で死ぬ確率が80%。フラッシュバックによるショック死の確率が70%。なのにあなたはまだ生きている。通常の健康体なら摂取して僅か
3秒で心停止するほど多量の『薬』を短時間で滴下されても死ぬどころか、最近では今までに見られないような身体機能の活性化も起こっています。『薬』が効
いているときであれば成人男性の3倍の力で活動が可能です。しかも、それが持続的に続くのであるのですから驚きです。通常なら自分の持ちうる力のリミット
を長時間越えてしまうと身体自体が耐えきれなくなり肉体が崩壊してしまいます。要するに内臓破裂や、筋肉断絶、疲労骨折と言った所でしょう。でも、あなた
にはその兆しも見られません。なのに、末期の症状だけはしっかり出ているのですから驚きです。それも現存する全記録を上回った凄まじさで・・・。私として
はよくあれだけ血を吐いて死なないのか不思議なくらいですよ。確率確率とばかり言って失礼なのですが、あなたは確率からして十中八九墓の下にいなければお
かしいのです。」
彼女は笑って見せた。穏やかに笑い、そして荒荒しく呟いた。
「そんなに失礼なら、初めから確率確率とおっしゃらないで下さい。だいたい、私は生きたいと思っているから生きているのではありません。お医者様のあなた
にいい事をお教えいたしましょう。人間と言うものは『生きたい生きたい・・・』暗に叫んでいるとその逆に早死にしてしまう。逆に『死にたい死にた
い・・・』と叫んでいると自殺しない限りは最後の最後まで生き残ってしまうのですよ。致命傷を負ってもがき苦しんでいる兵士に対して教えてやってくださ
い。私のように心の中で死にたいと叫べば何時までたっても死ねないからと・・・。」
「いやいや、なにも私はあなたの生の秘密を探りにきたのではありません。私が知りたいのはあなたのその異常なまでの『薬』に対する抵抗力ですよ。」
「・・・お断りいたします。」
栞は冷たいコーヒーを一気に胃袋の中へ流し込み、それを力任せに握り締めた。音を立ててそれは縦につぶれていく。細腕の彼女からは想像もつかないほどの握力だ。そしてつぶしたそれを老人の足元へと置いた。
「もし、知りたいなら私が死んでから好きなだけばらして調べてください。」
にっこりと笑い、彼の足元にある縦につぶれた缶を左のかかとで勢いよく踏み潰した。今度は横にぺちゃんこにつぶれた空き缶が間抜けな音を立ててトレーラー
の荷台の上を転がって、アフリカのサバンナの大地に落っこちる。鼻で笑い飛ばしストールを翻した。勢いよく風になびくストールの音が腹に響いてくるように
老人は感じる。そして、老人は思いきったように彼女に叫ぶ。その叫び声はトレーラーの端まで聞こえるほどの大声だ。
「あなたは、自惚れが強すぎる。生に対する自惚れです。あなたは心から死にたいと望んでいるのでしょうか?なら早く死になさい。あなたは化け物でも、怪物
でもない。『薬』に頼らなくては何も出来ないただの痩躯な重病人でしかない。自惚れはやめなさい。あなたはあなたの思っているほど怪物ではなく、周りが
思っているほどの化け物でもない。いい加減、強がりなどやめて普通の人間に戻りなさい。あなたのつまらない喜劇は終わったのです。」
「いえ、これからです。これからが私の『喜劇』の始まりです。あなたは私に『尼になれ』とおっしゃるのですか?ならそうなりましょう。それを演じきってみせましょう。しかし、私にはするべき事がある。ひひ・・そうです!私には人を殺すという立派な義務がある!」
その時彼女はふと何気なく口にした笑い声が自分の高ぶる気持ちをさらに快楽なものへとしてくれる事に気がついた。そう思った途端なにか自分の中で気持ちよく羽目が外れる感覚がして、自己陶酔に陥った。
「ひひ、そうです人殺しです。今、私にとって一番気持ちのイイ時代なのです。人を殺したってお咎めなし!後ろめたさも何もない。」
栞は芝居がかったように両手を広げて足を軸にゆっくりと回り始めた。「いひひ・・なんでいままでぇ、気付かなかったんだろぉ。」
既に焦点も合わない瞳と涎が一筋たれている口が既に彼女が何処か精神的に錯乱しているように見える。そんな彼女の頬を一筋の涙が伝う。奇怪な声と笑い声、しかしそれに不釣り合いの涙が哀れに見えてきた。
「もういい、シオリ中尉。そのようなそぶりを見せて、自分を化け物だと思いこむのはやめなさい。」
「バケモノ?お姉ちゃん・・・あの人私をバケモノって言うよ・・・。」
頭が重たい。頭痛がする。気持ちが悪い。周りが暗い。寒い。
私の脳が覚醒した。外界からの刺激が神経を伝い、シナプスを興奮させ140億の神経細胞の塊が唸りを上げて動き出す。次第にはっきりとしてくる外界の刺激。私の脳味噌もそれに反応して信号を送り始める。
ゆっくりとまぶたを開いた。いや、一気に見開いたつもりが思った以上にまぶたが重く、その作業に時間をかけてしまった。まぶたがここまで重たい物だとは今まで思ってもみなかった。うっすらと開いたまぶたの向こう側には青空が広がっている。
大きく息を吸い込んで、胸の中に大量の酸素を行き渡らせると同時に身を起こした。まだまぶたが開ききってはいないが身を起こす作業程度なら目をつぶっていても出来る。
まだ頭がぼんやりとして、自分がどうしてここにいるのかが分からない。
たしか、例の忌々しい老人と話しをして、そして私はそこから立ち去ろうとしたが老人に何かを叫ばれて、その先は覚えていない。身体の疲労感からしてもしか
したら発作を起こしていた可能性もある。意識が朦朧としているためまだ私ははっきりとした結論は導き出せないものの、例の発作を起こした確率が高いと決め
付けて思考とゆっくりと別の対象にうつしかえようと半開きのまぶたの中の目玉をきょろきょろと動かして辺りの様子を探った。
相変わらずの光景で、誰もが私から背を向けて声を潜めて話しながら時折視線をこちらに流し、出来るだけ気付かれないようにしているのであろうか、ゆっくりと目をそらして再び声を落として話しを進める。
誰もが、葬式のような静けさと沈痛さを隠しもせず惜しみなく私に見せ付け、一体誰のせいでこんな雰囲気になっているのかわかっているかと背中で私を責める
ように見つめる。その背中が私を見るたびに私は何か不快で心地よく、それでいて心が疼くようなそんな痛みに襲われた。感情ではなかなか言い表せない気持ち
を抱えて私は再び仰向けに寝転がり青空を見つめる。大空は雲を湛えて、その雲はゆらゆらと揺れながら風に流され刻々とその姿を変える。昔はそれを見て、
知っている動物の形を探していたものだ。だが、今の私にとってはそのような戯れが何処か馬鹿らしい戯言のように感じてしまう。
誰に教えるわけでもないのに気恥ずかしい気持ちになってくるためか恥辱に顔を赤くして眉根を寄せる事しか出来なくなっている実に感受性の乏しい女になっ
ていた。純粋に雲を眺めて様様な想像力を働かせていた幼い頃の自分とは到底程遠い、全ての気持ちを自分の中に閉じ込めてしまう、見ていても非常につまらな
い存在になってしまっている。それでいて、私を突き動かすのは復讐心から来る怒りと怨恨であり、それがなくなってしまった途端に私は心停止でもして先ほど
まで生きていたのが疑わしくなるほどあっさりと地獄に落ちるであろう。もう、あの頃のように、無邪気に姉やあの人と戯れる事が出来ないような、きっとその
ような性格に豹変しているのかもしれない。純粋に笑う事すら出来ない・・・。
考え方も行動も言葉尻も全てが昔の私ではない。素直に自分の気持ちすら言葉にできず、行動も自分ですら全く予測が出来ないどころか自分で自分を制御でき
ない。きっと、あの頃に戻ろうとしたら私が壊れてしまう。姉もあの人も存在しないこの世の中で私だけ元に戻れるはずがない。戻れたとしても誰もいないこの
世界で私だけ無邪気でいれるはずがなく、苦しみに耐えられずにきっと死んでしまうだろう。孤独に苦しみ苛まれながらきっと自らの命を絶ってしまう。孤独の
まま死ぬのは私は嫌だ。死ぬなら誰かが道連れだ。そうすればきっと寂しくない。私を恨みつらみ、呪いの言葉を吐いても私と共に死んでくれるのであれば私は
幸福だ。一人で空しく朽ち果てるよりかはずっといい。喧しいのが嫌いなはずなのに、死ぬときは喧しいほうがいいと考える自分の明らかに矛盾した考えが聊か
ならずもおかしいが、自分が死ぬのに道連れが欲しいなどと考える部分は更におかしいし、道連れにされる相手にとっては迷惑千万な話しでもある。
なにがともあれ、私は以前の私に戻れるわけもなく、それはおろか生きていても死んでも人に迷惑をかける公害のような人間に成り下がっている事は確かだ。誰もが私を倦厭するのもわかる。自分ですらこんな自分が嫌で嫌で仕方がないのだから。
取るに足らないようで、私にとっては非常に重要な事を取りとめもなく考えながら二度三度と寝返りを繰り返す。睡眠欲が身体の中からシグナルを発している
わけではなく、別段する事もないための時間つぶしと説明するのが一番妥当であり、この行動をする事によって誰かに構ってもらおうなどという、幼児的な思考
は持ち合わせてはいない。
付け加えるならここの連中は私が死ねば声高らかに歓声をあげて、両手を打ち鳴らして喜びの踊りを踊るような連中だ。私の行動など一切歯牙にかけないだろ
う。寝返りをうつのもなかなか体力を使うものだなと考えたのは寝返りを始めてから十回ほど左右に身を返した頃だろう。暇つぶしと言うものも度が過ぎると疲
労感を覚えて、暇つぶしではなくなってしまい、本来の意味をなくしてしまうのかもしれない。次に身を起こして手遊びをする。指を絡めてはほどいて、絡めて
はほどいてと幼児のお遊戯のようなことを幾度ともなく繰り返していく。幾度ともなく絡めては解くを繰り返していると、意外にもそれに一生懸命になっている
自分がいることに気がついた。何をするわけでもないのに、ましてやその行為に意味などないはずなのにただ純粋に楽しんでいる自分に少なからず驚きを持って
しまった。
白くて細い指。あの人はこの指に自らの指を絡めて笑ってくれた。優しい笑顔だった。そして、小さくて可愛い指だと誉めてくれた。彼はいつも私が欠点だと
思いこんでいる部分全てを誉めてくれた。今は自分のすべてが嫌いだが、あの人が生きていた頃は自分が好きだった。それはナルシスな「君は僕が好きだ、僕も
僕が好きだ。」という思念での好きではない。
あの人が私の全てを、欠点全てもひっくるめて好きだといってくれるのにそれを私が嫌いになることが出来なかっただけの話。あの人という中継点が存在しな
くなると途端に私が私を憎みはじめた。そして辿りついた先が今の私。人間全てを憎んでいるため、自分自身すら信じる事の出来ない今の私。もし、今ここにあ
の人がいたら私の事を可愛いと言って誉めてくれるだろうか。
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