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一瞬時間が止まった気がした。少女は奥歯を砕けそうなほど噛み締めて、震える手でゆっくりとストールを持ち上げるとそれの端には小さな穴が一つ開き、そ
の穴の回りは黒ずんで焦げていた。今度は穴をあけた当事者である火の消えた煙草に目線を移し、怒りを露にそれを靴のかかとで捻りつぶした。その煙草を詰る
度に土が深く掘られて煙草がその中へと埋没していく。それを確認して後に一言、柳葉の唇からは想像もつかない言葉が紡ぎ出された。
「殺してやる・・・」
殺意を露にした少女はその頭上にある足場を鬼の形相で睨みつけ、そこへ向かって身を進めた。時折すれ違う整備士たちは彼女の異常な雰囲気を見るなり悲鳴を上げて道の端へと引っ込んだ。
ストールをなびかせ、短い髪の毛を揺らしながら正面だけを見据えて突き進む。
その目線の先には自分の丁度頭上の辺りで話している男達の円が見える。歩みを速めその男達の円の真ん中に少女は不敵にも踏み込んだ。
男達は突然例の化け物が自分達の談話の中央に入ってきた事に強い恐怖を覚えた。理由としては、その談話の内容が当の彼女だったからに他ならない。
一同は恐怖に青ざめる。普通の人間なら、その相手に殺意を抱きかねないほどの話をしていたのだ。相手が相手の場合、もし聞かれていたら生きて帰れない。辺り一面緊張の糸が張り詰めた。
栞は下をうつむいて、ストールを丁寧に折りたたみ大切そうに両手に抱えて呟いた。
「・・・・たの・・・誰・・」
あまりの小声に静寂に包まれた一座の場を持ってしても聞き取る事が出来なかった。一同わけがわからぬといった表情を見せたので栞は唇を怒りに任せて噛み締めて、もう一度口を開いた。
「煙草捨てたの・・・誰ですか?」
噛み締めた唇の皮が破れてはいなかったものの、赤く腫れ上がった唇が動くその光景は異様なものがある。
「た、煙草ですか?・・・あ、あっしです。へへ・・・す、すみません」
例の精肉屋が恐怖に怯えた顔で、漸くこれだけを言い終えた。そして何度も何度も「すみません。」を繰り返していた。辺りも皆自分の煙草をもみ消してそれを背中に隠す。
唯一煙草を喫まずにいた痩せ男に栞はストールを投げて渡した。
「・・あずかって・・・」
「ひ、ひぃ!!」
何か尋常ならざる空気にその男は悲鳴を上げて後退り、身を強張らせる。その男の足元に丁寧に折りたたまれたチェック柄の地味なストールが音もなく着地し
て、その時の弱々しい風が僅かばかりの埃を舞い上げる。その男は恐怖の中でも栞の表情を観察しようと試みたが、切りそろえられた髪の毛に邪魔されて顔が見
えなかった。
栞は精肉屋に近づいていく。この吊り廊下は鉄製であるため、彼女が踵を下ろすたびに小気味よい金属音が鳴り響いた。何故かその音が異様なまでに鳴り響いていると周りの人間は感じていた。だが、精肉屋だけは違った。
わけのわからない恐怖と後悔が身体中を支配して、見っとも無い男泣きで腰を抜かして地面を掻くように後ろへと進んでいく。栞が一歩近づくたびに男がそれだけ後ろへと下がった。そして彼女がもう一歩踏み出すと、男もそれだけ後ろへ下がった。
奇妙な追いかけっこが一分ほど続く。辺りは静寂に包まれ、誰もそれを止めようとはしなかった。睨まれてもいないのに、蛇に睨まれたかえるのように既に体が動かなくなっていたのかもしれない。ようやくの時間が経って、押し殺した声が低くあたりに鳴り響いた。
「しんでください。」
一句一言はっきりと。
栞の手は男の脂ぎった筋肉質の首元を右手で締め上げる。そのとき始めて精肉屋に自分の顔を向けてにっこりと笑った。満面の笑顔を浮かべるあどけない少女の表情に、まったく笑っていない狂った瞳と鼻から上唇にかけてぶちまけられた赤絵の具のようなシミ。
男は悲鳴をあげようとしたが、気道を絞めつけられて全く声が出ない。必死に栞の指をはがそうともがくが、その指はまるで首の皮膚と一体化してしまったか
のように微動だにせず、それどころか更に自分の肉に食い込んでくる。見る限り自分とは腕力も筋力も劣っているはずの少女の指も腕も全く動かない。
その異常な事態に漸く周りの男達も金縛りが解けて、自由となった。そして、体格からして二倍ほどの男に馬乗りになって首をしめている、例の化け物から仲間を救出しようと一気にその場へ群がった。
栞に組み付き男から引き剥がそうとするも、地面に張り付いたように動かない。腕も何人がかりで引き剥がそうとしても全く動かない。
「なんだこりゃ、ぜんぜんうごかねぇぞ!」
「こっちもだ、地面に張り付いてるみたいだ。」
男達は我を忘れて栞を引き剥がそうと必死になっている。
「よくもお姉ちゃんを・・・殺してやる、殺してやる、コロシテヤル。」
栞はうわ言のように同じ言葉を繰り返し、狂ったような笑みを浮かべて楽しげに首をしめていた。精肉屋は既に意識はなく、目は裏返り、口の端から泡を吹き出し、腕は痙攣を繰り返している。
「この化け物め!ぶっ殺してやる。」
一人の男が顔を真っ赤にして腰に結えてある工具入れからスパナを取り出して、容赦なく栞の後頭部へ振り下ろした。風を切るような音が聞こえて、鈍器が彼女の頭を叩き割ると誰もが確信した。しかし、栞は頭部命中直前に身体の軸を動かし、打点をずらした。
空しく宙を切ったスパナは彼女の背中にドンと音を立てて命中する。それなりのダメージにはなるかもしれないが、致命傷にはならない。一瞬呆気に取られて、我を忘れた男は2,3秒の間硬直していたが、もう一度スパナを握りなおし振り上げた。
その時どこからか、水道管が詰まったような音が聞こえる。始めは排水ダクトか何かにネズミでも入り込んだのだろうと思い、だれも気に止めなかったがその音が意外に近くから聞こえている事に気がつくのにさほど時間はかからなかった。
その篭もった音は自分達の中心にいる栞から聞こえてくる。栞はその音が激しくなると精肉屋の首から手を離して自らの口に当てた。またあの音だ・・・栞の
表情が見る見る硬くなってくる。両目は見開いて、脂汗が頬を伝っている。口を押さえている指の間から赤い液体が音を立てて滴り落ちた。周りがいっせいに一
歩後ろへ引いた。まだあの篭もった音が聞こえてくる。と、突然栞は精肉屋の上から転げ落ちのた打ち回り始めた。
「う、ううう、う・・・」
さぞ苦しそうにうめき声を上げている少女に一同の動揺は隠せない。そして、篭もった音がひときわ大きく聞こえてきた時、栞は口から滝のような血を吐き出し
た。蛇口を全開にしたような勢いで口から吐き出される血に、あたりは騒然となる。戦争に身を置いているせいか日ごろから血は見なれているので、一切の吐き
気を催す事はないが先ほどまで化け物じみた女が血を吐き出している姿にスパナの男以外も半狂乱になって叫びたてた。
「医者だ!早く医者よんでこい!!」
「なんだよ!一体何が起こったんだ!!」
「馬鹿!!ぼっと突っ立てるな!はやくしろはやく!!」もう誰が何を叫んでいるのか分からない状態だった。その間にも栞の口は血を噴水のように吹き出している。男達は先ほどまでの事は忘れて縦横無尽に走り回り、あちらこちらへ叫びたてた。
恐らく今自分が何をしているかも理解していないだろう。あれほど死んで欲しいと思っている栞を助ける結果になろうとは誰も考えていない。発作からものの一分もせずに例の老軍医が真っ青な顔つきで、MSデッキに駆け込んできた。さぞ重たそうなかばんを手に下げている。
「一体何があった。どうしたのだ。」
騒ぎを聞きつけて隊長も駆け込んで来た。老医は血を吐く栞の脈を取る。そしてライトを片手に瞳に二度三度と繰り返し光を当て瞳孔の収縮作業の確認を取る。もう既に少女の白い上着は真っ赤になり、鉄の吊足場から地面に向かって赤い色が滴っていた。
「どうでしょう。このまま死ぬのですか?」
隊長は五割の期待と五割の不安を込めて老医に恐る恐るたずねてみた。あたり一面が血の海なのだから、いっそこのまま死んでしまったら、と心の内ではひそかながらに思ってもいた。出血量も半端じゃない。普通の人間だったらまず死ねる。
「残念ながら、死にませんよ。いつもの発作です。こいつを注射すれば・・。」
老医は大掛かりな鞄から注射器を取り出しそれに茶褐色の液体をなみなみと満たす。そして既に吐くものもなくなり、それでも嘔吐の行為だけを繰り返す栞を
押さえつけるようにと男達に命じて彼女の首筋の静脈にそれを注入した。静脈にそれが流れ込むにしたがって少女の痙攣と嘔吐行為も次第に収まり、全てが体内
に流れ込むまでにはその発作がなかったかのようにおさまってしまった。
老医はやれやれといった表情で立ちあがり、衛生兵に栞の身体を介護テントに移すようにとだけ命じて一同に振り向いた。そんな彼を隊長は苦々しげに見つめている。よほど栞が死ななかったことが悔しいようだ。
「しぶといものですな。いっそのこと死んでくれれば・・。」
老医は訝しげに彼の顔を覗きこんだ。
「これは、感心しませんね。曲がりなりにもこの部隊の隊長とあろうものが部隊員に死ねとは・・。これ以上無駄に兵を死なせてはいけませんよ。」
言葉を失う隊長。楽しげに老医は笑いながら、いまだに唖然としている整備士たちのほうへ言葉を向けた。
「ま、悪い夢だと思って忘れてくれ。」
何故か自分達があの化け物よりぞんざいに扱われた気がして、雰囲気が気まずくなる。
「ちょっと、あの女があいつを殺そうとしたんですよ!あいつも診てやってくれ!」
肩を怒らせたスパナは裏返った声で首をしめられて失神している精肉屋を指す。一同賛成のようでそれに頷いた。さぞも面倒な仕事が出来たものだと言わんが顔で精肉屋に歩み寄り脈を取って呼吸を確かめるそぶりをした。
「水をかけておけば直ります。掃除ついでに起こしてやってください。」
「ちょ、ちょっと待った!こいつは首しめられたんですよ!あの女には大層な薬をくれてやったのに、被害を受けた俺たちは何もなしですか。」
「失神に効く薬など我が部隊にはありません。では・・」
辺りは騒然とした。誰もが、死んでくれと望んでいる女には貴重な薬を惜しみもなく注射してみせるのに、その女の被害を受けた者たちにはねぎらいの言葉一
つもかけてもらえなく、水をかければ治ると言われた。うそでもいいから何か別の言葉を言ってくれたほうがよっぽどましだと、それぞれが異口同音に呟いた。
「隊長・・・」
一人の男が、この老医の奇怪な行動を諌めるようにと言った口調でこの雰囲気の流れを振った。だが、頼みの隊長もこう呟くだけで終わった。
「整備班、血はふき取っておけ。今晩中にだ。臭くなってはかなわん。」
私はゆっくりと目を覚ました。あの地獄のような苦しみの中で意識が途絶えてしまい、その後の事など一切覚えていない。覚えていると言えば私の視界が真っ赤に染まっていることだけ。あの苦痛の中を支配していたのは、真っ赤な、紅の暗闇。
そのなかで、姉と、あの人の名前を交互に呟き、自分の意識が自分から飛び出してしまわないように必死に自分の肉体につなぎとめる呪文としていた事も思い
出されたが、それ以上の事は全く記憶にない。朦朧とした意識の中ではだ触りの悪いシーツのベッドの上に寝かされていることに気がつく。そのベッドからゆっ
くりと身を起こした。辺りは硝煙で黒ずんだ四方が囲まれたテント。
私は一つ苦笑いを洩らした。自分という身体は医療という名の呪縛から逃れられないようだと。そんな事を考えていると、あの老医がテントに入ってきていた。手にはレーションを二人分携えている。恐らく一つは私の分だ。
「漸くお目覚めですか・・シオリ中尉。丁度今昼食の時間ですよ。」
「私は・・どうして・・」
まだ朦朧とした意識の中で、昨日の記憶を探り出すかのように頭を抱えて頭を振る。
「なに、いつもの発作ですよ。例の注射しておきましたから・・・大丈夫です。」
「・・・どれくらい。」
「えっと・・健康体の致死量の3倍。50ml・・・。」
「記録更新ですね・・」
「ま、そう言った所でしょう。」
老医はうまくもないレーションをさぞもうまそうにぱくついている。私はそんな食欲などわきはしなかった。自分がまた人間ではない人間になっている気がして・・・。
「まあ、気を落とさない事、あとはしっかり食事をとる事だ。軍隊のレーションは精がつく内容になっている。君は昨日血を吐きすぎたからね、作ってもらわにゃならない。幾らでも献血してやるほどこちらも余裕はなくてね。」
重たそうな腰を持ち上げて、老医は乾いた笑い声を上げた。何故笑われているのかよく分からない 私に向かって彼はこう言った。
「別に君の事を笑っているわけではない。先ほどの自分の言葉がバカらしくてな。」
「・・・ご愁傷様。」
私は皮肉たっぷりにそう吐き捨てレーションを口に運ぶ。うまくも不味くもない保存食が昨日の吐血でただれた喉を通る瞬間が何とも言い表わし難い不快感をあおるのと老人が私と同じように嫌味たっぷりに呟いたのは同時だった。
「なに、君ほどでもない。」
「そんなこと言う人、嫌いです。」
それ以上は何もお互いに言葉を交わそうとしなかった。私はレーションを胃の中に押し込むのに必死だった。食欲がないのに食物を摂取するのは空腹で食べる事が出来ない以上に不快でならない。ろくに食べ終わらないうちに私の満腹中枢は警告を発した。
これ以上食べたら胃から吐き戻すというサインである。私はレーションを手短な所において一息つく。最近は何も食べたいと思わないためか、この食事が久方
ぶりのものにも思えた。実際はつい昨日食べたばかりなのだが、それもほとんど食べ残しているため食事をしたという実感がわかないためだろう。気分が悪くな
るほど胃袋に詰め込んだのはもうどれくらい前の話しだろか、まあ、考えるだけ無駄なことだ。
「おや、もったいない。若いうち食べれるうちに食べておかないと肝心なときに食えなくなって、いざと言うときの力が生まれませんぞ。」
こう言うときばかり、年長者風を吹かせるこの老人に侮蔑の意をこめての舌打ちを一つと、この老人の下心を見透かした言葉を一つかけてやる。
「どうぞ、誰も食べませんので、お好きなだけ食べてください。」
そう言うなり老人は小躍りをしながら私の食べかけのレーションを瞬く間に平らげていく。実に欲望に忠実な老人だと改めて見せ付けられた。つい先ほど一人
前を平らげた後とは思えないほどの速度で口から胃袋へと運ばれていくレーション。自分が食べるよりも気持ち悪い。良くぞここまでの食欲があるものだと感心
する。
そんな事を考えているうちに老人はなめたように綺麗な容器を二つ重ねて机の上に放った。
「いやはや、年になってくると食事だけが楽しみでな。こんな偏狭の土地に連れて来られて、人間らしい食事からかけ離れる事があってもしっかり食べて飲んでいればいつかは美味いものが食えるというのが私の哲学でしてね。」
誰も聞いてもいないのに、わけのわからない人生論を語るのであればこの老人も生い先は短いだろう。突如、老人は思い出したかのように棚の上に指を差して言った。
「そうでした、あなたの衣服、代えがあそこにあります。昨日の血の臭いを撒き散らされては兵士達の精神衛生上にも悪いのでそこのシャワーでしっかり流し終えてから着替えて出ていってください。」
その時、私は今初めて自分が一糸纏わぬ裸体である事に気がついた。老人は楽しげにこう答えた。
「あなたは自分の身体をぞんざいに扱ってはいますが、あなたはまだ若い。あなたは自己で今の自分の状態に満足しているかもしれませんが、他の兵にとって
はあなたは非常に魅力的なのです。こんな最前線、男としては人肌が恋しくなりますからね。どんなに化け物とか、怪物とかと思われていてもやっぱり、女の皮
を被っていればそれだけでも男集にとっては十分なのです。あなたのようにあまりそこのところを考えずに歩き回られると、ワシのような枯れてしまった男なら
ともかく、まだ血気さかんな男どもには耐えられないのですよ。あなたは自分が思っているほど醜くもなければおぞましくもない。・・・外見はね。」
「そんなあなたの性格が、嫌いです。忌々しくて吐き気がします。」
老人に侮りと嘲笑を混ぜた視線を向けて、あからさまな嫌悪感を見せた。そんな老医はどこから出しているのかも不明な高笑いをあげて、さぞおかしそうに腹を
抱えている。正直自分の言った事が相手の不快を煽るために吐いたのにも関わらず、相手の笑い出す奇妙奇天烈な展開にますます腹が立ってきた。老医は声を上
ずらせてさぞも愉快そうに言葉を紡ぐ。
「ワシも、そんなあなたの性格が大嫌いですよ。忌々しくて吐き気がします。」
私の言葉のオウム返し。口真似をされているようで非常に不快だった。舌打ちを一つ、歯軋りを一つ、忌々しげに立ちあがってシャワー室へと向かった。
そんな私の後ろから声が聞こえた。
「だが、あんたはもう少し自分を大切になさい。ワシはあんたが嫌いだが、あんたが好きな奴だっておるやもしれん。好きだった奴もおるやもしれん。そいつらを悲しませるな。」
「そんなこと言う人、嫌いです。」
腹の中で老人に呪いの言葉を吐きだして、気紛らわせにでもしようと考えたがシャワー室に入る頃には既にその様な取るに足らない怒りをすっかり忘れ去ってい
た。冷静に考えれば、何も怒る必要もない取るに足らない事だと言う事をいまさらながら気がついてそんな恥辱に一人顔をしかめた。
蛇口をひねると貯水タンクにたまっている水が勢いよく噴き出す仕組みになっているシャワー室で私は水を無駄に消費していた。灼熱の気候からか、昼間ほどになると水も丁度よいお湯となってくれるので風呂を沸かす必要もない。
だが、お湯と言うものは血をなかなか洗い流してくれないのも欠点だ。髪の毛にまとわりついた、乾いた血などを洗い流すのに10分もかかってしまった。い
つもは、誰も見てくれる身体ではないと烏の行水で済ませていたが、この日ばかりは何故か必死になって身体中を洗っていた。
お湯のような水を弾く自分の青白い死人のような肌に私は不快感を覚えた。どこから見ても、私など健康には見えない。姉のように血の巡りがよい綺麗な肌はしていない。死んだような真っ白な、それでいて気持ち悪いくらい蒼褪めた肌。
姉を見るときいつも私は、羨望を持って見つめていた。私と違い、瞳も綺麗で肌も美しく、面持ちも美人そのもので長い栗色の髪の毛は同じ女の私でも見とれ
るほど優麗だった。そんな姉が私にとっては自慢だった。綺麗で勉強も出来て、運動神経もよく誰からも羨まれる強い姉が私にとっては自慢だった。でも、それ
は私のことではなくあくまで姉のこと。私自身が誇れるところなど、何もなかった。
姉のように綺麗ではない。勉強も出来なければ、運動も出来ない。誰よりもあるとしたら、恐ろしいまでの独占欲と嫉妬心、そして猜疑心。
それでも姉は私を、大切にしていてくれた。全くの見かえりも、報酬もないのに姉はこんな私を妹として大切に接していてくれた。たった一人の妹と言って無条件で強く抱きしめてくれた。愛していると言ってくれた。
「わたし、お姉ちゃんみたいな美人で、頭が良くてスポーツ万能な女の子に憧れちゃうな。だって、私なんか馬鹿だし、病気ばっかりしてるし、青白くて気持ち悪いし・・。」
そう言う事を言ったら姉はいつも私をしかってくれていた。
「何言っているのよ、どうして、自分で馬鹿だとか決めるの?あなただって十分可愛いわよ。だって、私の妹よ。私の妹なら美人に決まってるでしょ?ただあなたはそれを判断してくれる素敵な男性がいないだけよ。元気になったら彼氏作らなくちゃ。」
「私、自信ないよ。私みたいな病人。デートも出来ないし・・・ちょっとの外出だって気が抜けないのに、そんな女の子の彼氏になってくれる人なんか・・・」
「いるわよ!絶対にいるわよ。私もね、いま、気になる奴がいるんだ。頭も悪くて、性格も滅茶苦茶で・・・顔見てるだけで殴りたくなってくるような奴なん
だけど、でもねやっぱり好きって不思議よね。そいつといるとなんか落ちつくのよ。あいつよりも外見も性格も頭もいい奴なんか掃いて捨てるほど言い寄ってく
るけど、何時もあいつの顔ばかり思い浮かんでくるのよね。好きってね、そういうものなのよ。相手の外見とか、性格とか頭の良さじゃなくて、何かもっと別の
言葉では言い表わせないような・・・。一緒にいると頭じゃなくて心で『ああ、こいつが今の私にとって一番必要な奴なんだな』て凄く分かる男性。それがきっ
と好きってことじゃなかな・・・。ま、あいつなんかそんな私の気持ちなんかぜんぜん気付きもしないであちこちと女に声駆けまわってるけどね。こんなに美人
が彼女いない暦更新中の男を好きでいてやってるのに、鈍感・・・」
「お姉ちゃんがこんなに想っているのにその人って凄い鈍い人だね。・・・でも、私その人に嫉妬しちゃうな。お姉ちゃんがその人を大切に想ってるってことだもん。なんか私が取り残されちゃいそうな気がして。」
そう言うと姉は手を私の頭の上において、あきれ返ったような口調でこう言った。
「あのね、栞。何馬鹿なこと言ってるの?『好き』と『愛してる』じゃ重みが違うのよ。私はあくまであの馬鹿を『好き』なだけであって、あなたは『愛して
いる』のよ。愛しているってのは今さっきの様に言い表せば『ああ、こいつがずっと私にとって最も必要な奴なんだな。』と言ったところよ。あなたとあんな馬
鹿・・・比重が違うのよ比重が・・」
姉はそう言うと私を強く抱きしめてくれた。その抱擁の暖かさは今でも忘れる事が出来ない。
「栞、元気になったらあなたも好きな人見つけなさい。私だけ先駆けはしないわ。一緒に告白して一緒にフラれましょう。」
「お姉ちゃんひどいよ。それじゃあ私ますます自信なくしちゃう。」
「だって、あの馬鹿、私に対してだけはぜんぜんそんなそぶり見せないんだから。きっとあいつ私の事毛嫌いしてるのよ。いつもうっとうしそうな顔して私を見るから。だから、ちょっと自信なくてさ・・。」
そして、私は大切な人を見つけた。姉の言ったように、彼は私のどこにもとらわれず私を好きでいてくれた。私の最初で最後の恋だった。
蛇口を閉めると先ほどまで勢いよく吹き出していた水が嘘のように止まり、まるで何事もなかったかのように沈黙する。
手短なタオルで頭をふくと、それに淡いながらも赤いシミが出来ているのに気がついた。まだ完全に洗いきっていなかったのだろう。だが、もう洗う気もすっ
かり失せている。何時までもぬるま湯に浸かっていると、そのうち全身が膨れ上がった水死体になるかもしれないと錯覚に陥るからだ。もしかしたらそんな事を
思わせて自分の風呂嫌いを正当化しているのかもしれない。私の中ではそれでも十分な理由になっているから、恐らくはそうであろう。
全身を拭き終わり、私は出口のノブに手をかけた。と、あの老人の嫌味な言葉が思い浮かんでくる。彼曰くは私がこんな姿で歩き回っては、周りが迷惑する。
だそうだ。忌々しかったが、周りにそんな目で見られるのも正直不愉快だ。私は手短なバスタオルを身体に巻きつけノブを引いた。
シャワー室の外には老医のほかに幾人かの兵士らしき男達が治療を受けていた。訓練中か、仕事中に怪我でもしたのだろう。老医以外の男達の目線が私のほうへ向く。
そして一斉に歓喜の声をあげて私の身体をなめるように見、そしてそれで聞こえていないつもりなのか、小声のような大声のような位置付けに非常に苦しむ声でこんな事を各々が囁きあっていた。
「おい、あれ、例の化け物じゃん。」
「シャワー室からあんな格好で出てきて俺たち誘ってんのか?」
「馬鹿!お前殺されるぞ。」
「しかし、まだ、ガキみたいな体つきだな。」
「そうか、俺ああいうの結構好み・・。」
「はぁ?お前ロリコン?」
「俺としちゃ、いま、女なら誰でもOKって感じだな。」
卑猥な事を口走り、卑猥な笑い声を上げる。別段気分は害されないが、あまり長くは居たくないなと心で呟いた。
着替えを手に取り、手ごろな場所を探したがどこにもそのようなところはなさそうだった。まあいいかとため息をついて、その場で着替えようと思ったとき老医が私の名前を呼び手招きをした。私は小首を傾げるも彼の招きに応じて彼らの前に立った。
私が近づくにつれて男達の目線がきつくなっていく。
老医の指定した場所に立つと男達は何かを期待した目でこちらを見ている。
「・・なんでしょう。」
「そこで着替えなさい。」
歓声は上がらなかったものの、男達は小声で騒然となった。これはこの老人の嫌がらせかと眉根を寄せて眼光を老人に向けた。大体今の私を知っている人間は
こう睨みつけられるだけで、腰を抜かしてしまうのは実証ずみであり、私もそれを期待したが、彼は何も悪びれた表情もせずこちらに歩み寄ってきた。そして、
耳元で彼はこう呟いた。
「何だかんだ言って、この場で嫌な顔をするのならまだあなたには女性としての理性が残されている証拠ですよ。」
「別に嫌な顔はしていません。ただ、あなたを今この場で殺してしまいたい気持ちに駆られただけです。」
老人は一つ笑って見せて、私に背を向けた。
「さあ、さあ、目の擁護時間はこれにて終了だ。」
そう男達に叫んで、彼らと私の間にあるカーテンを勢いよく閉めた。採光性が高い生地のため、影が向こう側に透けて見える事もまずない。布の向こう側では男達が不平の声をあげている。
「おい、そりゃないぜ先生。」
「あそこまで期待させといて・・・」
「馬鹿者、いつもは化け物扱いをしてこういうときばかり女扱いしおって。」
「いてぇ!」
向こう側から悲鳴が聞こえる。恐らくあの老医が傷口でも引っぱたいたのだろう。私はさっさと衣服を身に纏い、どこにも異常がないかと体を左右にひねって確認する。いつもと同じサイズで、同じ着心地に私は満足して一息ついた。
こんな暑い中でセーターを着ているのは異様な事でもあるし、それを調達するのも並大抵の事ではないが補給ラインに行くたびに北方からの売れ残りである白
いセーターを買いあさる。だが、最近はあのような発作が幾度となく起こるため、ただでさえ数の少ないセーターがすぐにだめになってしまう。黒なら幾らか汚
れていてもごまかしがきくが、この白だけはどうにもならないし、私の発作も一種の生理現象だから止める事も出来ない。結局改善策など存在しない。堂堂巡り
なのだ。
また馬鹿らしい事を考えたとため息をついて最後にストールを羽織る。焦げ後が昨日よりも広がっているように思えて見える。その傷口を見るたびに自分の心
が抉られているような気がして、怒りが沸沸と湧き上がってくる。姉からもらった私の命よりも遥かに大切な宝を汚された怒りが今にも爆発しそうになってき
た。昨日あそこで発作が起こらねば、あの男を絞殺できたのに。口惜しく唾を吐き捨てるまねをして、もう一度自分の体をストールで包みなおした。
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