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History of Gundam another kanon―栞―
伊崎信哲(k)
「心拍数、血圧共に正常。」
頭の禿げ上がった軍医が私の胸に聴診器を当て後、血圧を測る。
「本当に君が重病者なのかワシは時折疑わしく思えてくるよ。何もかも正常じゃなあないか。異常があるとするならば君が一向に君の言う病で死なないことだ。もう君は死んでいておかしくない状態にあるはずなのだがね。」
冗談を言ったつもりらしく、彼は乾いた笑い声を上げて見せたが私が一向に無反応なのを見てその笑いを止めた。そしてもう一言私に付け加える。
「なにも、君に早く死ねと言っているわけではないよ。私は一応医者なのだからね・・・。」
その表情は何処か悲しそうでもあった。だが、そんな彼の表情の変化を見て取れるほど今の私には心の余裕など無い。悲しそうとは理解できたがそれ以上に何
も詮索するつもりなどない。この軍医がどう私に対して思おうと既に私にとってそんなものはなきにも等しいものなのだから。
「安心してください。あなた方が処方してくださる薬で今も元気に人殺しが出来ます。感謝していますよ。」
私は卑屈に言い放って笑って見せた。そしてそのまま、たくし上げてある上着を元に戻し、愛用のストールを羽織りなおす。
「待ちなさいシオリ中尉。確かに外見的には何も異常は見られません。ですが、あなたのように『あの薬』を毎日のように摂取するような事があればそれこそ、命の保証はありませんよ。」
私は振り返り笑って見せた。どんな顔かはわからないが、恐らくとんでもないくらい気分の悪くなる笑顔だったのだろう。自分でも気持ち悪いという感覚が襲ってきたのだから。
「安心してください。私はあなたに『病人を治せ』などとは言いません。もちろん死人を甦らせろとも言いません。どうせ、私は死にますから。なくなってしまう命なら懇切丁寧に扱う必要もないでしょう。私は私のするべき『義務』を果たします。」
老医は視線を地面に転じて私から目をそらした。肩が震えてはいるものの、怒りからでも恐怖からでもないものであるように思えた。
「ワシは、君の考える事が分からん。どうして君はそこまでして死に執着する。誰もが死にたくないと心の中で思っているのに。君にはジオンに対する忠誠心などありはしない。だが、どうして死を恐れずジオンのために戦う?」
「ジオンのためではありません。これは復讐です。私の大切な人を奪ったこの戦争への復讐です。お姉ちゃんを奪った連邦に対する復讐です。」
もう一度笑って見せた。そしてストールで身を覆いなおし、大きく空気を胸に吸い込んだ。硝煙の臭いが鼻につく。まさしくここも戦場なのだといまさらながら実感した。
「復讐は何も生み出しはしない・・・」
老医は苦虫を噛み潰したかのような口調でつぶやいた。その紡ぎ出される言葉はどこか苦々しい響きも含んでいる。
「聞いたような事を。先ほども言ったように私は死ぬ身体なのです。何も生み出す必要もありません。私の胎はあの人だけのもの。そう、あの人だけの・・」
もう何も聞く気にはなれなかった。いい加減老医との茶番も飽き飽きしてくる。私はストールを翻して硝煙で黒ずんでいる天幕の外へと踊り出た。
あたり一面戦争が支配していた。MSと呼ばれる人型兵器が辺りをのし歩き、兵士達が罵声を交換しあいながら走り回っている。
軍隊と言うものはどこもこのようなところなのだろう。まあ、綺麗に戦争をしろなどと考えてもいないが・・・。第一戦争に綺麗汚いなどありはしない。勝て
ば官軍なのだ。核を使って地球の半分を焦土に変えようが、巨大建造物を落下させて木っ端微塵にしようが勝てばそれでいいのだろう。だからというと可笑しい
のだが、この軍隊独特の罵声に対して怒りも哀しみも感じた事はない。大体自分もその様な場に身を置いている一員なのだからとやかく言うだけの資格など一切
持ち合わせていないが・・。
私は歩みを速めて自分の持ち場へと戻る。とは言うものの、私はこの小隊の中でもっとも階級の高い士官なのだ。実のところするべき仕事など何一つありはしない。独立遊撃師団属の小隊の隊長は普通少尉が隊長であり、その下に准尉、上等兵などの部下がつく。
最も死亡率の高い遊撃師団の更に死亡率の高い最前線小隊に高級士官など常識的から考えて誰が置くものか。無論年齢的には隊長である少尉のほうが年齢が上である。
兵卒からのたたき上げの軍人であるからか妙に自尊心が高く、私のように同じ兵卒からでも僅か半年で中尉までの異例の出世を遂げた成り上がり軍人を異常なまでに毛嫌いする。
だが、軍隊では年齢に関係なく階級が上の者が・・言わずと知れている。だが、どうして通常少尉程度の人間が隊長の部隊にそれよりも階級が上の中尉が部隊の一戦闘員として参加しているか、という疑問も生まれてくる。そんなもの一言で片付く。私が地球人であるからだ。
ジオンの部隊にも外人部隊と呼ばれる、ジオン公国国民外の志願兵で運営されている部隊も幾つか存在する。
むろんこの私も僅かな間だが、左様な部隊にお世話にもなった。だが、その外人部隊員と私との決定的な差は地球人である事だった。外人部隊といえども宇宙
人だ。地球人でジオンに志願する人間などいやしない。無論のこと上層部にとって地球人の私がジオンの部隊に所属しているのは非常に目障りであった事だろ
う。宇宙人優良説を掲げるジオンは、地球人が自分たちの陣にいることだけでも士気の低下につながるからだ。たった一人の兵に全体の士気を崩されてはたまっ
たものではない。
その様な理由から私は最も死亡率の高い最前線に投入された。最前線ならばどんな屈強な兵士であれ、戦争中には必ず死ねるであろうとの見目論が御上もあっての異動だったのであろうが、どうも私は生命力においては何ゆえにかしぶとく一向に死にはしない。
それどころか出撃のたびに撃墜数を稼ぐために階級を中尉に格上げせねばならなくなってしまったのであろう。皮肉な話しだ。疎ましい地球人など今すぐにで
も死んでもらいたいものなのに、これからの戦闘に必要なエースはばたばたと死んでいくのだから・・。笑い話にもなりはしない。まあ、笑い話にならないのは
向こうの話しだが。
私の仕事はMSの操縦者。要するに戦争で最前線に出て最初から最後まで人殺しをつづける殺人鬼だ。自分も既に500人以上の人間を殺してきただろう。もし地獄が存在するなら私は確実に地獄行きだ。
だが、不思議なものだ。
平和な世の中、人殺しをしようものなら殺人犯のレッテルを貼られ容赦なく監獄に叩きこまれて、どのような刑罰よりも重い罰を受けなければならない。それ
の究極が死刑と言う国家殺人だろう。だが、戦争はその罰を下すべき国家自体が殺人を犯しているのだ。確かに手足となって殺しているのは私のようの兵士達ば
かりだが、それは全くの気休めにもならない。
罰を下すべき機関、いわゆる国家やそれに似た組織が異常と来す時、殺人は殺人でなくなる。すばらしい事だ。人殺しが一つのゲームに変わってしまう。誰もとがめられる事がない。
周りの人間は誰もが私を疎ましげな目線で嘗め回す。私は身長も決して高い部類の人間ではない。いや、お世辞で言っても高いわけがない。そんな女が自分た
ち以上の人間を殺しまわって一向に死なないのだから。極めつけが地球人。友人が次々と倒れていく中私だけのうのうと生き残っているのだから、それは目障り
で仕方がない事だろう。
そんな私と誰も接しようとはしなかった。
見てのとおり薄気味の悪い大病に侵された女をいったい誰が見初めるものか。それどころか皆、何度も戦闘に出ては帰ってくる気色の悪い屍を忌み嫌って避け
ていく。けれど、私も誰とも接したいとは思わない。どいつもこいつも愛国心を叫びたてる騒々しい連中ばかりで、一緒にいるだけで疲れてくる。人殺しを自ら
の手柄として風潮して回る連中が大嫌いだった。
自分が国の英雄のように触れて回り、ちょっとしたことで死んでいく自己管理も満足に出来ない輩だったから。
斯く言うが、私は人殺しが嫌いなわけではない。実際人殺しが楽しくて仕方がない。姉の命を奪った、あの人の命を奪った、両親の命を奪った奴らを、そして
この戦争を起こした人間全部をくびり殺してやることが私の夢だった。私の幸せを奪った、戦争を・・そして姉の命を奪いあの人の命を奪った戦争を、それを起
こした奴らを皆殺しにしてやりたい。そう考えるだけで全身が快感で総毛立つ。気持ちが良かった。
私の生きる僅かな糧となっているのは復讐心だ。聞こえは悪いかもしれない。大体復讐で何が生まれると言う者もいる。先ほどの老医もそうだ。まさしくその
通りだ。復讐からは何も生まれない。だが、私にとってはなにも生まれない事に越した事はない。生まれてしまったら、面倒な事になる。面倒な事が起こればそ
れを片付けるためにまた、騒々しいこの世の中で生きつづけなくてはならない。いつまでたっても私は死ねないではないか。死ぬ事が安らぎであるかどうかは二
の次として、私の辿りつくべき場所は死にある。
姉とあの人のいる死の向こう側に存在する世界。そこへ逝って、姉とあの人に私の殺してきた、姉とあの人のために殺してきた人間を一人一人数え上げて、そ
れを生け贄として私は地獄に落ちたい。今そのために地獄逝きの切符を買うためにせっせと身を粉にして稼いでいるのだ。その生け贄があの二人に良しとされる
かされないか、それは分からない。それがたとえ望んでいないものであっても、私は殺しつづける。
私が望んでいるから。私が二人に与える事の出来る最良のものを携えて地獄へ落ちたいから。二人ならきっと、満足してくれると思う。なぜかって、それは二人は優しいから。とても、とても、優しいから。それに、あの世に哀しみなんて・・・ないはずだから。
そんな、私の殺人を助けてくれるこの世で唯一の私の友人。それが、巨大な人間を模した、心を持たない殺人兵器。モビルスーツ。一体どのような何の略称な
のかは正直覚えてはいない。いや、むしろ覚える必要がない。人殺しに必要なのは、自分の手にある武器でいかに人を殺すかであり、名称を暗記してそれを言い
ふらしていたのであればその間に自分の脳みそを外界に撒き散らす事になる。
私にはまだやるべき事がたくさんある。人を殺して、殺して、殺して、殺して。そのために、全くの助力も惜しまないMSは正直者の鏡だ。私が歩けと言えば
文句もなく歩き、殺せと言えばためらう事無く殺す。それでいて、とても美に優れていて、綺麗で優雅でこの世界に存在する人の手の加わっている何者よりも偉
大な存在が私の友人。それが私に力を与えてくれた。誰よりも強い力を与えてくれた。
私はいつも力を望んでいた。弱かった私はいつも姉の影でびくびくしていた。
小さな頃から病気がちで、学校でもよく苛められた。でも抵抗はしなかった。逆らえばまた面白がってエスカレートさせる。幼いながらも本能的にそれがわかっていた。子供というのは残酷なもの。純粋であるが故に残酷なのだ。
人間は純粋であれば在るほど残酷で非道になる。私の周りの子供もそうだった。そんなとき、いつも姉が助けてくれた。そんな姉の背中を見て私は強くなりた
いと願った事がある。姉は勉強も出来て、運動神経も良くそれでいて美人で、私の姉とは到底思えない女の子だった。怯える私をいつもかばってくれて、誰より
も私を大切にしてくれた。
学校の友達よりも親よりも、更には自分よりも私の事を大切にしてくれていた。私はそんな姉の強さが羨ましかった。そしてそんな自分を見るたびに自分の醜
さに心を苛まれた。力さえあれば、姉はもっと良い生活を営めたはずだ。綺麗だから恋人の一人でも出来ていて・・・頭が良いからもっと良い学校にも行け
て・・全部自分が姉の未来を閉ざしている。そのたびに歯噛みをして、強くなりたいと望んだ。姉の未来を閉ざしたくないと・・・。
しかしながら、皮肉な話その強さを手に入れたのは姉が鬼籍に入ってから。私は姉が世から消えてなくなってしまった後に強さを手に入れた。何者をも超える力を手入れた。でも、もう姉は未来が閉ざされてそして私の前からも取り去られていた。
MSはそれでも私の力であってくれる。そして、それは人のように苦しむ事もなく哀しむ事もない。私だけの兵器。私だけのトモダチ・・。そのトモダチが今
私の目の前にそびえている。片手に巨大な銃器を握り締め、無機質で光の灯らない瞳が何処か遠くを見据えて立っている。辺りには整備士たちが怒気のこもった
声をあげながらそこら中で騒ぎまわっている。どうやら私の機体の整備をしている連中らしい。
私はいわゆる整備士泣かせな操縦士らしく、出撃のたびにあちこちを壊して回る女だ。私にとってこの巨大兵器はトモダチである以上に一つの道具であり、整
備士の持つ機体に対する愛着心というものは一切持ち合わせてはいない。そうでないと人を殺す事は出来ない。愛着など持つとそれ可愛さに臆病になる。
臆病になることはいざと言うときに敵に背を向けることになり、行きつく先は死だ。もう一つの理由として私は醜い女だ。その女にふさわしい機体は外見上美
しくてはいけない。誰もがより寄りつかない、その心の現れの機体であって欲しい。それが私のMSに対する友情の証しでもある。
私なこの友人のために命を犠牲にしている。ならば、この友人も私のために犠牲にするべきものが存在しても何ら問題はないはずだ。まして心のない兵器。
何が哀しむ。情が移ると物が物でなくなる。友情を持つという事は恐ろしい感情であり、私はそれに一抹の恐怖すら覚えている。それだけ感情というものは恐ろしいのだ。ましてや愛着など持てばその場で死ねる。
私はMSの脚部に腰を下ろした。心音が辺りの音全てをかき消し私の耳朶に到達する。
嫌な湿った音が体内から聞こえてくるこの感覚。もしこの臓器が破れたら。もしこの場で爆発したら。そう考えると気が気でなくなる。それはさぞ痛いだろ
う。そこらじゅうをのた打ち回り、泡を吐き出して瞳は裏返って苦しみながら死んでいくだろう。そんな苦しい死はお断りである。だが人間も生物も微妙な釣り
合いの中で生きている。
もしかしたら次の瞬間心臓が弾けるかもしれいし、肺が破裂するかもしれない。それが起こらないと言いきれるほど、人間は丈夫でも無ければ万能でもない。
それなのにいつしからか人は自らの背丈も忘れて摂理に喧嘩を仕掛け、それを克服するためにあれやこれやと手を尽くして、いまでは科学万能と叫ばれる気違
いの世界となっている。だが、その世界であっても私が今この瞬間に心臓が破裂して死んでしまうなどという、ばからしい考えを100%否定し去る事は不可能
だ。この周りにいる人間全てにも同じことが言える。
足を踏み外して落ちるものもいるかもしれない。鉄骨に叩き潰される者もいるかもしれない。・・・何を馬鹿な事を考えているのだろう。と私な自虐的な笑み
を浮かべた。どうも私一人で何か物思いに耽る時は馬鹿な事を考えてしまう。最近考える事全てがなにかばからしく、よくよく考えたら何を考えているのかも分
からないほど主題もぼやけてしまう取り止めの無い事ばかりだ。
目線を上げて一人の整備士を見た。見るからに整備士といった服装で油に塗れてスパナを片手にあちこちといじっている。体つきも良く、二の腕の筋肉は自分
の三倍はあるだろう。刈り上げた頭が何処か可笑しく、滑稽にも見えた。年はまだ若い方で三十前後だろうか、時折回りの人間を怒鳴りつけるところからこの機
体の整備士をまとめる存在なのだろう。今こうしてみると、自分は同じ部隊の人間の名前をまだ一人も覚えていない。
毎日のように世話になっている老医の名前すら覚えていない始末だ。
この部隊に配属されて早3ヶ月。それなのに隊長の名前も覚えていないのであれば笑い話にもなりはしない。まあ、私と付き合う人間など誰一人として存在し
ないのであれば、使いもしない名前を覚えるよりももう少しましな事に使うのが有効な利用手段だろう。と、またしても馬鹿な事に無駄な時間を使ってしまっ
た。話す相手もいないと、こうもばかばかしい事ばかりを考えて時間をつぶしてしまう。
考えるなといっても考えてしまうのだから救いようがない。そんな考えを鼻で笑い飛ばし、立ちあがった。突然の動作のせいか、身体が平衡感覚を失い脚部装
甲板へもたれかかると、私の足元が湿った音を立てた。水が雫となって滴り落ちるような音にも似ていた。それが二滴三滴と続いた。
目線を下にやると、赤いシミがオイルで汚れてやや黒ずんだ土の上に小さな跡を作っている。今度は顔を下に向けてそれが何かを確認しようとしたら、水がこ
ぼれたような音を立てて土の上に何かが散らばった。散らばったと同時に私はようやく自分の口周りが何か生暖かい事に気がついた。
どうしたものかと思い口に手を当てた。と、上唇より上がねっとりとした感覚に包まれていることに気がつく。ゆっくりとそのあたりをぬぐったら赤黒い血が
私の手を濡らしていた。もう片方の手で鼻を押さえてみると、だらだらと何かが流れ出てくるような感覚が添え手から伝わってきた。嫌悪感を露に一つ舌打ちを
洩らし、服の袖で鼻血をふき取った。よく起こる発作みたいなものだ。
一種薬漬けのような状態でいるからしかたがない。まあ、この程度の発作なら許容範囲だろう。どうしても好きになれないのは量が量なので衣服が台無しにな
る。ぬぐってもぬぐっても幾らからも鼻から流れ落ちるために、いい加減ぬぐうのもあきらめた。この程度の発作ではあの老医でも診てくれはしないだろう。鼻
の下が生暖かい感覚に支配されながら再び座り込み顔を覆うようにして座り込む。見られる事に関して恥とは思わないが、顔を上に向けていては大事な衣服が汚
れてしまう。
どうせ死ぬ事はないのだから落ちついて自然治癒されるのを待つのが得策だろう。
嫌な音を立てながら鼻の頭から地面に向かって滴り落ちる赤い液体。その到達点に存在する小さな赤い水たまり。どこまで大きくなるのかと少々好奇を持って
その水たまりを眺めるのも、いつしからかこの発作の時に私が行う行動の一つでもある。そしてもう一つは暖かい血を感じるたびに自分は生きているのだと思
い、一つ悲劇のヒロインを演じて泣くことだ。涙もこの血と同じくらい暖かい。それが、気持ちが悪く、姉が死んで後私は泣く事が嫌いになった。その様な事を
言ってしまうと語弊が生まれてしまうかもしれない。
決して、私は泣くのが好きだった女の子ではない。だが、姉やあの人が生きているときにはよく泣いていた。
でもその涙を二人がぬぐってくれていたから私は、また笑顔に戻れたのかもしれない。そうであったから涙を流す事が出来たのかもしれない。だが、今は誰も
ぬぐってくれる人などいやしない。行き場のない涙ほどこの上なく不快なものは恐らくこの世に存在しないだろう。誰かのために泣いてやる涙も、自分のために
泣く涙も行き場がなければ頬を伝う忌々しくて、陰気なただの液体でしかない。
誰も拭い去ってくれない・・いや、その表現ではなく、姉やあの人が拭い去ってくれない涙などもう要らないのだ。不快この上ないのだ。だから、その気色悪
い涙を流して自分を虐待しているのだろう。その様な運命になった自分に酔いしれて、馬鹿な舞踏を踊ってみるのだ。自分が馬鹿な事を再確認して、人殺しをし
てみるのだ。そしてまた泣いて、馬鹿な小躍りを繰り返すのだ。そうでないと今の自分が壊れてしまうような気がして・・・
MSの足元に肩を覆って座っている少女を横目に見ながら整備士たちは囁き始めた。
「おい、あの女・・例の化け物か・・・。」
「そうだよ、かわいい顔して累計撃墜数84機。殺した人間に換算すりゃ500人だ。噂によると入隊前にも殺人を4,5回やってるらしいぜ。でも、そんなんには見えねぇよな。」
「・・・ここだけの話。結構可愛いよな。ありゃ見た感じニホン人だぜ。くぅぅ〜、人肌が恋しい!」
二人がゲラゲラと声を立てて笑っているところに、肩までかぶる髪の毛を無造作に束ねた若い男が割り込んだ。
「おいおい、かわいいなんて言葉滅多に使うなよ。あんたらはまだ新入りだから分からんかもしれねえけど、あの女は化け物を通り越してるよ。この世であの女にふさわしい言葉なんかありゃしないね。」
「そりゃどういう事だい。」
二人は半分の好奇心と半分の不快心を顔に表しつつも、男の唇が動くのをつぶさに観察する。そんな二人を見て彼は歯を見せて笑い、声の調子を落として深刻そうな面持ちで語り始めた。
「ありゃ、俺が入隊したての頃だったかな。見てのとおり整備士として俺はこの隊に派遣されたんだよ。右も左も分からなかったな、あの頃。で、この部隊の
先輩方にあんたらが教えられたように俺も伝統から規律から全てを叩きこまれたって分けさ。そんなかで、最重要必修課題として教え込まれたのが「あの女には
近づくな。」だ。俺は初め何の事かと思ったぜ。見る限りひょろひょろの病人じゃないか。おまけによく見て見りゃなかなかの美少女。女も色気もないこんな軍
隊、男の血が少々ばかり騒いだのさ。だけどさ、俺、見ちまったんだよ。ありゃ、俺が入隊して初めての戦闘。遠目で見てたら一機のザクがあれよあれよという
間に敵をバカスカ撃墜させていきやがる。それも半端なスピードじゃない。普通のパイロットの3倍のペースだ。教えてもらったさ、あの女のMSだってね。あ
の女の通った道は瓦礫の山だよ。たった五分間の戦闘で撃墜数9機。俺はアニメを見てるかと思ったぜ。お前らも知ってるように戦闘は大体全体の二割が敗北の
ラインだ。それ以上の無駄な戦闘は絶対にやらねぇ。あん時の敵の量が30機程度だったから、あの女一人で3割の戦力を破壊しちまったってことさ。さすがに
びっくりしたぜ。」
二人の男はその話しを聞いて少し興ざめした。結局今まで自分達が聞いた事あるような話でなにも好奇を満たすことのない取るに足らない話しだと受け取ったからであるからだろう。
「おいおい、それならエースじゃないか。べつに怖くも何とも・・・」
「ばか、話は最後まで聞け。確かに俺もそん時はすげぇと思ったさ。なんたって三割だ。日ごろデカイ口叩いてる奴らなんざせいぜい1,2機だ。俺は惚れ惚
れしたよ。問題はその後さ。戦闘が終わって全員で残存兵を狩りに出かけたのさ。生き残ってる奴は捕虜にしなきゃいけねぇからな。俺もそいつに参加させても
らった。ま、下心もあったさ。あの、エースの美少女とお知り合いになりたかったからね。だけどな、俺見ちまったんだよ。
・・・・・思い出すだけで、怖気がする・・。あの女・・・俺たちが到着した頃には・・・生き残って逃げ遅れた連邦兵の怪我人ども、全部ぶっ殺してたんだ
よ。しかも、拳銃やナイフなんて生易しいもんじゃねぇ。その辺にある鉄パイプで狂ったように殴りつけてたのさ。あたり一面血の海。なにか、気味悪い笑い声
上げながらわけの分からん事口走って・・。うめき声上げる連邦兵を手当たり次第さ。そんとき隊長が止めてくれて、俺はあん時ほど隊長が頼もしく思えたこと
はなかったね。・・・そして、あいつが振り返ったんだ。その顔にはべったりと血と脳みそが・・・・・・あいつはどっか狂ってる。いや、狂ってるってもん
じゃねぇ。なにかがおかしい。
人間としての何かが欠けてやがる。いいか、お前らも気をつけな。別の話しによりゃぁ、殺されかけた奴もいるらしいぞ。じゃぁな。」
若い男が背を向けて、手を振りながら去っていく。何かその背中はこわばっているようにも思えた。取り残された二人は顔を見合わせて、お互いにその顔を青
ざめさせた。その二人の脳裏に先ほどの男の言葉が何度も繰り返し繰り返し響き渡る。手を速めて早々に作業を済ませる。その間の男達は化け物の狂気の白刃が
こちらに立たない事を祈っていた。全く生きた心地もせず、お互い全く言葉を交わさずに・・・。
そんな怯える二人の整備士たちの頭上で、別の男達が煙草を喫みながら短い休憩を取っている。普通見られるような男同士の猥談もなく、通夜にも似た静寂に
支配されている。男達の中で一人が口をゆっくりと開いた。あくまでその音量を落として、何か聞かれたらまずいような事を話すように辺りをきにしながら話し
を始めた。
「おい、今度の整備のローテーションどうやって組む?」
「くじ引きしかねぇだろ。お前、こいつのコックピットの整備やってくれるのか?」
面倒くさそうにタバコを揺らす、血気盛んな男が吐き捨てた。
「冗談じゃねぇぜ。俺はこの前やったばかりだ。もうあんな所御免こうむるよ。」
横様に倒れこんで一同から背を向けるように寝返りを打つ。周りの人間も別の誰かが突然現れたら、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいそうなほど、見えないものに怯えた雰囲気にとらわれている。
2分ほどの静寂が長く感じられた。それぞれの口に紅く灯る火と揺らめく毒素の高い煙だけが自己主張して、後は何もないような空間にも感じられるほど静かだった。
「やっぱり、あいつのコックピットはおっかないのか?」
一同の目線が一人の人物に集中する。少々気が弱そうな痩せ気味の男で、その人物だけはその口に煙草の火をともしていなかった。
「・・そうか、お前は悪運強いからあいつのコックピットの整備に入った事ないよな。聞かねぇほうがいいぜ。・・・と言っても、他の奴らが話したくてうずうずしてるみたいだけどな。」
するとまた別の男が楽しげに口を開いた。
「あいつのコックピット。ご周知の通りあの女のMS、俺達の整備所轄では一番嫌がられているのは知ってるはずだが、その理由はやった人間しかわからねぇ。けどお前には特別に教えてやるよ・・・。あの女のコックピットはなぁ・・・いつも腐臭がするんだよ。血の腐臭がな。」
ニヤニヤ笑う男の表情を見て一同が食い入るようにその歯を見つめる。煙草の成分で黒ずんだ歯と少々腫れぼったい歯肉が辺りの気分を少々害したが、それで
も男達は皆なにか暇つぶしを見つけたようにその男の歯を見つめて、時折例の悪運の強い痩せ男のおびえた顔を見て腹の中でいやらしい笑いを見せる。
「俺の実家は精肉場を営んでいてな、毎日のように牛や豚を殺して血抜きをして逆さ釣りにしてた。ガキの頃からそればっか見てきてるから、血や内臓には大
分免疫があると自負していたぜ。でもな、そんな俺でもあの女のコックピットには驚かされた。あたり一面血の臭いがこもってやがる。
あの女、ぶち殺した奴らの返り血もろくすっぽ洗いもしないで乗り込みやがるから中に血の臭さがこもるんだよ。しかも日に日に腐っていきやがるんだ。ここ
らはクソ暑い気候だからな、血が腐って変な臭いを出すのもさして時間はかからないさ。それにあの女にこびり付いた肉片だの脳味噌だのが俺たちの目の届かな
いような隙間に入り込んで腐臭を撒き散らしやがる。基盤とかはずしての大掛かりなメンテナンスかなんかで、つぶれて腐った目玉が出てきたって話しも聞いた
ぜ。へへへ・・・」
話が進むにつれて痩せ男は身を震わせて、顔面を蒼白にする。少しでも気を緩めたら胃の内用物を全て撒き散らしていたかもしれない。
「そ、そんな・・でも、どうしていつまでもあんな奴をのさばらせて置いているのですか?聞く限り危険な人物じゃないですか?いつ我々に牙をむくか・・・」
「ばーか、あの女の累計撃墜数を知ってるだろ。いくら気持ちの悪いおぞましい化け物でも、あの女はジオンのエースなんだよ。お偉方も激戦区の最前線に投
入するが、そのたびに撃墜スコアを伸ばすだけで一向に死んでくれん。あいつあ、やろうと思えば『連邦の白い奴』とも対等に殺り合えるって噂だ。まあ、たて
まえと本音は違うが、エースパイロットがバカスカ死なれちゃジオンは困るんだよ。ま、俺たちにしちゃ気色悪い事この上なしだがな。早く死ね!ミサカ。」
恐らくこの男の最後の台詞は本心から出たものだろう。いまいましげに唾をはき捨て煙草を手すりの向こうへほうり捨てた。
栞は鼻から出血を続ける血が漸く止まった事を確かめた。手でもう一度ぬぐってみると、既に乾いた血が焦げたパンの皮を破るような音を立てて地面に落ちていく。
鼻の頭はまだ湿っぽいが既に止血されているのは確かだと、心の中で呟き上着でそれを拭い去った。気候からして着ているのがおかしい白のセーターに真っ赤な色が染み込む。
また、一着服をだめにしたと彼女は呟き立ちあがった。愛用のストールが血で汚れていない事を確かめた。他の衣服は幾らでも汚れてかまわない。破れようが
燃えようが一向に構わない。だが、このストールだけはそれを許さない。これは栞に残された唯一の宝物。彼女の姉が彼女に贈ったストール。言わば姉の遺品で
ある。
彼女はそれを大切そうに宙に広げ汚れがない事を両面丁寧に確かめた。自分の身体に関しても、服装に関しても、人間関係に関しても無粋な少女であるがこの事に関してだけは神経質になる。それほど彼女にとってこのストールは大きな意味をなしていた。
姉との大切な思い出が、それにはあった。奪い去られる前の姉の笑顔がそれを見るたびにことごとく思い出される。そのたびに栞はつらかったが、それでも彼
女のストールは彼女の心の唯一の安住である事に変わりはなく、それに身を包まれていると姉に身を包まれているように思えて、そのときだけ自分が人殺しでは
なく一人の女に戻れているような錯覚に陥る事が出来た。現実逃避だと人は笑うかもしれないがそれでも、何もない栞にとって一つ残された人間的なものだっ
た。
血糊が付着していない事を確認すると少女は安心したようにそれを羽織りなおした。もう既に辺りは暗くなっており、月明かりと室内の淡い光が辺りを申し訳
程度に照らし出している。そんな中で佇む少女は何処か儚げだった。だが、そのぬばたまの髪の間に垣間見える、燃えるような双眸が彼女を人間らしからぬ何か
へと昇華させている。
時折吹く風が彼女の髪を揺らすと同時に、瞳に宿っている冷たい炎も激しくゆすられる。外見は幼くひ弱だが、その立ち振る舞いは人のものではなく、鬼のよ
うでもあった。地面から浮いたような歩み、焦点が定まらず辺りをさまよっている、燃えるような瞳とその思考の結末。時折狂ったように歪む唇と瞳が少女の決
して醜悪でない外見をひどく崩す。少女からは何か不気味な雰囲気が漂っている。
餓えた猛禽類が獲物を探すときのように目玉で辺りを忙しなく右へ左へと嘗め回した。次の瞬間憎憎しく唇を歪めて、足を踏み込み後ろへ飛びのく。その目線の
先はまだ火の灯った煙草。赤々と火のついている煙草は少女の頬、肩、そして腕を避けていく。だがその切っ先は、風になびき空間に取り残されたストールへと
食い込む。黒い煙を上げて火は鎮火し、ストールに小さな風穴を開けた。
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